8日目 今日も天気良好、沖縄の南側を今日は攻めるぞ!行きは西海岸、帰りは東海岸のルートで設定。
最初に行ったのは読谷村にある残波岬だ。ここもけっこ尖っているので行くしかないだろう。
国道から県道6号線に移れば後は道なり。さとうきび畑だろうか、畑がいくつも続いている道を走り、岬までさほど時間はかからなかった。
灯台の周辺は大きな公園になっていて、歩道を散策したり園内のカフェで食事を取ったりも良いんじゃないかな。で、岬の先に建つ残波灯台は海と空とうまく調和して「岬に来た」っと感じさせてくれるし良い絵にもなっている。
少し移動して横から灯台を見ると、今にも落ちそうなほど崖に建っている。
「がけが崩れたら灯台は海の底に沈んでしまうな」と余計なことを考えたり考えなかったり…
んで、最後にこいつを1つ拝んでから次に行こうかな。
道路わきに高くそびえつこの巨大なシーサー、この公園のもう一つのシンボルと言っても良いかもしれない。初めて見る人は写真に収めずにはいられないはず(?)
そして西海岸を下って行き、那覇市と豊見城のちょうど境にある
旧海軍司令部壕
へバイクを走らせる
小高い所にあるためか、市街地からはずっと上り坂。
この周辺は公園となっており、展望台からは両市内を望む。住宅が立ち並び活気にあふれる街並みが、一面焼け野原になっていたとは想像しにくい。
館内に入ると最初に目に映るのは、壕(手掘り)を掘るときに使われたつるはしとクワ、銃器に軍服、将校の手帳等々壕に残されていたものが展示されている。
そして壕の中に入って行く、下まで階段がしばらく続いてかなりの深さまで掘られているのがよくわかる。
降りると内部は、いくつもの坑道が張り巡らされて迷路のよう。地下壕には発電室、医務室に幕僚室、下士官室など部屋があり印象的なのは幕僚室で幕僚が手榴弾で自決した跡がはっきりと生々しく残っていることだ。
司令官室は他の部屋より大きく、テーブルに花が飾られてなんといえない雰囲気を出している。当時指揮にあたっていた大田海軍少尉はここで何を思っていたか…
1944年8月10日着工、同年12月に完成。翌年3月から米軍の攻撃が始まり、徐々に戦力を削がれ次第に米軍に占領されるようになった。5月に入ると、米軍から激しい攻撃を受け身動きが取れず孤立。
6月、さらに米軍の進軍は進み司令部壕を包囲。戦力となる物は皆無で、まともな武器さえ残っていなかった最悪な状況に陥ってしまう。中旬になると大田少尉は決別の意を打電、数日後拳銃にて自決。
そうして戦闘は終わり、司令部壕は役目を終えた。
戦後ここから大田少尉(死後中尉に)を含めて2000人以上の遺骨が発掘される。
当時の状況をそのまま残した司令部壕は、戦争を学ぶ上で本当に貴重な存在になっている。沖縄には戦争の跡がいくつも残されているがここにはぜひ寄ってもらいたい。
喜屋武岬
続いて沖縄最南端の喜屋武岬(きゃん)に行ってみよう。国道からはずれ県道3号線を南に進んで、住宅街を抜けるとさとうきび畑が見渡す限り広がっている。
道は狭く車同士の離合は無理かな。そして突き当りまで行くと岬にようやく到着。
ここも絶景の中の絶景!
なんというかお手本になるような風景。沖縄南部は激戦地となっている場所で、猛烈な爆弾と銃弾の雨が降り死屍累々の地獄絵図と化したところとは思えないほど穏やかな時が流れている。
すぐそばに灯台があるようなのなで行ってみると、門にカギがかけられて近づくことさえできない。
何かの理由で公開されてないみたい。岬に観光客はほとんどいなくて間違いなく穴場になっている。ゆっくりと満喫できそうでここはおすすめ!
魂魄の塔
さて、最後に訪れるのは魂魄の塔。岬から少し東にあり、そこまで距離もないから寄って行くと良い。
ここには犠牲になった人々の遺骨が納骨されている。至る所に飛び散った遺骨を集め、その数は3万500柱にものぼり、沖縄県の中でもこの地域が一番死者が多く激戦地だったこと物語っている。
この碑を中心に各都道府県の塔(全国から召集された兵士の慰霊碑)が建っている。
人の姿は見えず、時折風が吹きひっそりと慰霊碑が佇む。そばに生えるデイゴの木が大きな影を作っていた。
そろそろ時間なのでここを離れるとしよう。帰りは329号線を使って東海岸沿いを通ってキャンプ地へ。海沿いから市街地に出て渋滞に巻き込まれたり、山間部に来ると流れが速くなったりと変化が面白い道だ。
今日は実際の戦争の跡を見たりして貴重な1日となった。う~ん、明日の予定は未定だ。