2021年3月
あの日からちょうど10年が経とうとしている
あの時のことを忘れないように
当ブログで自分に起こった状況をお伝えします
1. 2011年 3月11日当日
当時、千葉県八街市(やちまた)にアパート暮らしをしていて仕事場は山武市(さんむ)内の会社に勤めていました。有名な九十九里浜は目と鼻の先で仕事帰りにちょっと寄って行くこともできました。
午後になり仕事にいそしんでいました。その時、誰かが「地震?」と言ったその時、今まで経験したことない揺れが襲いました。
工場は恐ろしいほど揺れて、部品を乗せている台車と台車が激しくぶつかり合いガッシャンガッシャンと音を立てていました。立っていることも難しい揺れだったことを今でも覚えています。揺れは非常に長く数分は揺れていました。後になって知りましたが、自分の居た地域は震度5強を観測しています。
激しい揺れが続く中、全員で工場を出て広い敷地に集まり上司たちが今後どうするかを話し合っていました。その最中でも地震は続き、地面が不規則にぬるぬる動いてました。しばらくして全員帰宅になり自分はバイクに乗り自宅を目指します。
2. 帰宅
帰路に就くと、道が隆起してかなりの段差になっていたり片側1車線が崩れ落ちていたり損傷が目立ちます。
信号も点灯してなくてうまく通行できず、この田舎でも少々渋滞ができていました。(のちに、誰かが交通整理をしていた)アパートに戻ると棚とかタンスの家具は置いてなかったが、冷蔵庫が移動して通路をふさいでいた。
冷蔵庫上の食器かごは落ちて、割れた食器が散乱していた。部屋の損害これぐらい。時間を置くことなく停電、ガスが使えないことが分かりかなり不便でした。水道に関しては、八街市の非常用発電機が生きていたので普通に使えて助かりました。
何が起こったか情報が入らない中、ひとまずバイクのガソリンを満タンにしてアパートへ戻りました。ちなみに、連絡を取ろうとしても電話は混線を極めほとんどつながらず、メールに至っては1日ぐらい遅れてくる有様でした。
部屋を掃除して、まだ停電が続くので暗くなってからはLEDライト1つで活動、3月は寒くいつでも外に出られるように服を着て毛布にくるまってその日は就寝。ご飯は前日の残りのチャーハンを半分食べて残り半分は翌日に取っておいた。
3. 翌朝AM3時 停電復旧
ふと、目が覚めると明かりがついていることに気づき目が覚める。時間は早朝3時ぐらい。そこで、すかさずテレビを付けようやく事の重大さに気が付いた。
大津波が車を飲み込み、町を破壊する映像は映画のように見えたがこれが現実だ。
千葉南部の石油貯蔵施設が破壊され大きな炎を上げる。(これがのちの燃料不足を生む一つの要因になった)この日からかなりの頻度で、震度4を観測する余震が続き緊急地震速報が頻繁になっていたことも忘れていません。
当日は金曜でこの日は土曜、会社からは月曜と火曜は休みと連絡が入った。尚、正社員は工場の復旧に当たる。状況を理解できた一方、自分は足りない食料の確保に全力を尽くしていた。
自宅には保存食や水の蓄えはなく、買い足す必要があった。自分以外にも考えることは一緒で、スーパーには連日人が列を作り買える個数にも制限がかけられていました。
ガソリンも緊急車両にしか販売されず、しばらく給油できない日が続いた。
4. 仕事再開
水曜から仕事が再開されても普段の生活はまだ戻らない。食料と燃料の問題はまだ解消されません。
その週は仕事に行けましたが、とうとうガソリンが確保できずに数日間休みました。地元ではないため目につく所を当たりましたが、どこも販売していませんでした。
情報を集めて2CH(現5CH)を読んでいると、近くのスタンドが販売開始をしたと書き込みを見てすぐに買いに行き、情報通り給油ができました。この書き込みをしてくれた方には今でも感謝しています。
5. 少しずつ生活が戻り始める
数週間が過ぎてガソリンは普通に買え、スーパーの店内での販売が始まりました。それでも、品薄は続き生鮮食品は何もなく相変わらずレジには長蛇の列ができます。
このころだったか、福島原発のメルトダウン、それに伴い原発の休止などで電力不足が起こり輪番停電が開始されました。この八街市も対象地域でしたが幸いなことに一度も停電はされずに済みました。
ほかの地域では停電になりかなり不便だったと会社の同僚から聞いてます。
6. 2ヶ月後
あの日から2ヶ月たち、ようやくいつも通りの日が戻ってきたと思います。しかし、福島原発の事故や津波の被害にあった地域は復興とはど遠い状態です。
大量の放射性物質が拡散され、他の地域に移る方や除染で出た放射能を帯びた水など原発関連はよく話題になっていました。自分の方は、不足気味が続いた食料品は解消してここでやっといつも通りになったと思います。
地震当日から、ここまで回復するのに時間を要しましたし、ほんとに長かったです。
7. 最後に
震災を経験してからは意識がガラッと変わり、カセットコンロやバッテリー、長期保存できる水や食料を備蓄し、またいつ遭遇するかわからない天災に備えるようになりました。
今後、電力確保にソーラーパネルと小型発電機の導入、調理や暖を取るために薪ストーブも用意して災害に強い環境を整えようと考えてます。
ここからは余談、後から知ったことですが九十九里浜にも津波が到達して道路にも流れ込んでいたことをYouTubeの投稿で見ました。
大きな津波のようでしたが、会社まで来ることなく難を逃れてよかったと思います。もしここまで来ていたら、自分も含め大勢が飲まれて犠牲になっていたかもしれません。
常日頃から大津波を想定した避難ルートの確保や訓練は非常に大事です。教訓として生かし、後世まで伝え、災害に強い社会作りは最重要課題です。
冬が過ぎ暖かくなると子供のころの入学や学年が上がる新鮮な
気持ちを今まで思い出していましたが
あの出来事が起こってからは震災のことしか思い出さなくなりました